路面凍結

1月8日の朝は、路面凍結がすごかったですね。前の日の夕方〜夜に雪が降って暖かくて、翌朝は普通に冷え込んで立派なアイスバーンができました。雫石のスキースクールに息子を通わせるため、送迎バス乗り場の盛岡南イオンまで走りましたが、思い出に残る凍結路面でした。分かっていても殺られそう。

ドライバーの皆さん、素晴らしい勇気です。道路脇に刺さった車は矢巾で2台、明らかに今朝のものと思われるガードレール真下のタイヤ痕、滑りながらセンターラインを超えそうになる対向車。。。

そのうちの1台は、小学校の通学路の歩道を超えて、田に突き刺さっていました。後輪が、はっちゃがっていました。児童が居なくて良かった。

恥ずかしながら、以下の経験があります。いずれも20代ですね。

(1)松尾村刈屋。下り右カーブで、クルッと回ってピタリと止まる(直後、上り凍結路面でなかなか発進できず)。対向車が居たらアウト。

(2)北上市4号線バイパス。止まれず、前の車に追突しそうになる。センターラインの雪に右側のタイヤを乗せて止まるも、横向きに。

(3)水沢市神明町。一時停止で止まれないところに、車が!!相手が避けてくれたので助かる。

自分が悪くないヒヤリも、まだまだあります。

皆さん、車の運転はもっと臆病になりましょう!!

矢幅駅西の工場

古本屋のネットショッピングで購入した「矢巾町史」が昨日届きました。ボーナスの使い道の一つとして、お嫁ちゃんにOKをもらって買ったもので上下巻合わせて6,500円です。図書館に行けば読めるのですが、たまに興味のあるところだけパラパラ読みたい。そして引っ越して7年目、もっと地域のことを知りたかったので。。。

矢巾町の歴史と言えば、避けて通れないのが「徳丹城」なのですが、正直あまり興味がありません。私がピクッとくるのは近代史なのです。

ちびりちびりと飲みながらこの本を読んでいくと、「いいね!」の記述を見つけました。

商工業と言っても矢巾町に見るべき市街地はない。旧村の中心地、西徳田、上矢次、室岡には小学校もあるので多少集落らしい形はあったが、町というべき姿ではなかった。唯一の町らしい形は矢幅駅前につくられていた。
工場は戦時中の疎開工場であったフシマンが、昭和二十五年に新会社フシマンバルブ製作所(社長 昆貞、現(株)ベンとなった他・・・(以下略)

※矢巾町史下巻p330

なぜ、「いいね!」と思ったかと言うと、以前やはり古本屋から購入した昭和25年刊行の岩手年鑑にある、この広告が気になっていたからです。

ベンの沿革を見ると昭和25年創業となっていますが、当時の広告は創業40年以上となっています。ううむ、どう見てもこの広告はベンだなと思いつつ、現在のフシマンの沿革を見ると、岩手県紫波郡の工場は昭和25年に閉鎖と書かれています。

ううむ、何があったのだ。

(ベンにお勤めの)近所のO先輩からお話を聞いたり、地区の文化祭で初代社長の肖像写真を見ていたので、フシマンから独立したんだろうと想像していたのですが、その根拠(書きもの)が見つかって、もやもやが無くなりました。

矢巾に来たのは疎開だったのですね。

すぐに「疎開」&「フシマン」でインターネット検索したところ、以下のサイトに辿り着きました。以前には無かったぞ。

世界の技術|株式会社 ベン – 輝く技術光る企業 – 東京都

優れた企業であることは知っていましたが、この記事を見て自社のルーツを大切にしていることがよくわかりました。

それにしても、なぜ疎開先が矢幅駅付近だったのでしょうか。

戦前の矢幅駅は、大ケ生金山と鉄索(ケーブルですか?)で結ばれたり、徳田倉庫にそのまま線路が引き込まれていました。駅西には溜め池も多く、天然氷の出荷もあって、駅の貨物の取扱いが盛んだったようです。戦中はそうでもなかったかもしれませんが、白羽の矢が立ったのは、その辺りが理由なのかなと想像しています。

 地図・空中写真閲覧サービス 

ここには、徳田倉庫に引き込まれる線路、溜め池、(おそらく)フシマン製作所の建物が写っています。

 

ムッちゃんの詩

ムッちゃんの詩」の事は、後から調べました。

太平洋戦争を含む近代史について元々興味があって、いろいろ本も読んでいますが、こんなに悲しい話があったことを知りませんでした。

戦争の悲惨さ、平和の尊さを教えてくれた昨日の煙山小学校学習発表会の6年生の劇は、あまりにも悲しすぎる結末でした。
イントロのナレーション部分はうんうん、ふむふむ、そうだね知っているよと聞いていましたが、空襲に逃げまどう人々のシーン以降は完全に見入ってしまいました。逃げる途中で転んだ時のしかめっ面から、防空壕の中の無邪気な子ども、現実的で冷ややかな大人たちを、6年生は見事に演じていました。
演技指導の素晴らしさ、スポットライトの演出など、先生方の指導力と創意工夫を強く感じる冷静な自分がいる一方で、目頭が熱くなる自分がいました。

泣いていたおばあちゃんもいたようです。私もビール1本でも飲んでいれば、間違いなく落涙していたでしょう。

「戦争は悲惨だね。」の一言では済まされない強いメッセージを感じました。

今年は、見たもの、聞いたものを、どうしても震災にマッピングしてしまいます。
多くの人を巻き込んだ、戦争=震災、結核=放射能、極限状態から解放され時にあの時ああすれば良かったという大人たちの後悔。家に帰ってから、すごく考えさせられました。

私としての結論、「大人の後悔」これだけは避けたい。そんな極限状態に置かれたことは無いけれど、いつの場面でもあの時ああすれば良かったという後悔はしたくないと思いました。

学習発表会って、大人の道徳の時間なのかもしれないですね。

山賊祭り

10月10日(月)

我が家のプランターの土が、余って余って仕方がありません。そこら辺に捨てるわけにも行かないので、私の実家に持ち帰って処分することにしました。 息子と共に実家に着くと、両親から、これから山賊まつりに行くから一緒に行って昼飯を食べようと言われ、考える間もなく同行することになりました。

山賊まつりに行って失敗したと思いました。。。

特設ステージで繰り広げられる「さんさ踊り」は良しとして、ハチマンタイラーとか八ちゃん音頭とか、失礼ですが私にはつまらな過ぎです。それでも会場のご老人達は、椅子に座ってステージを楽しんでいる様子(涙)。 息子は飽きてくるし、両親はゲートボール仲間と話し込んで動く気配もない。

「駄目だ、現役引退した人達とは時間の流れが違う。一緒に来るんじゃなかった。」

後悔しました。父親の車に同乗して来たので帰れず、もともと私は外出するつもりじゃなかったのでジャージ姿にひげ面、ボッサ頭の格好で、会場内を積極的にうろうろするのも恥ずかしかったのです。

そのうち、孫との思い出をつくろうということで、私の父は、遊覧用のヘリコプターに乗ろうと息子を連れ出しました。3分間で大人4,500円、子ども3,500円、合計8,000円です。

待ち時間をどうしようかと悩んでいたら、西根中学校の吹奏楽部のミニコンサートが始まって救われました!

娘も中学生になったので、やっぱり同じ中学生の活躍がとても気になるし、大更小学校の吹奏楽部の卒業生らはここでも活躍しているのかなぁと思いながら、演奏を聞いていました。学校の吹奏楽部って、テレビにもよく取り上げられて流行っているような気がしますが、生の演奏はやっぱりカッコいいですね。輝いていましたよ。しかも、平均60歳以上の観客のために演歌メドレーまで披露して、会場の拍手は鳴り止みませんでした(アンコールあり)。地域のためにも頑張っているんですね。

息子曰く、ヘリコプターは目が回るようだったそうで、たった3分間も長く感じた、山が赤と黄色だけだったそうです。私の父の思惑どおり、息子はこの時を忘れないでしょう。

矢巾町民大運動会

10月9日(日)
隔年で開催されている矢巾町民大運動会に参加しました。私は、毎回綱引きに参加しています。矢巾に引っ越してから、班長をやったり行政区の役員(会計)を担当していたので、何となく声がかかってしまうんですね、きっと。
我が新田地区は1400人以上の住民がいて、人材の宝庫のはずです。それなのに選手枠95人にも微妙に人が足りず、今年は息子が小中学生リレーに、息子の応援のつもりで見学していた娘にもリレー参加の声が掛かってしまい、我が家から3人が参加することになってしまいました。選手発掘に、巨大行政区の難しさがあるのでしょうね。

小学校の運動会でなくても、ついついビデオ撮影をしてしまいます。

一方、小規模行政区も25才未満の部の競技に(たぶん)小学生が複数回出場していたりと、選手発掘に深刻な悩みを抱えておられるように見えました。。都市化が進む以前の、かなり昔であれば、地域の若い衆も積極的に参加して大いに盛り上がったことでしょう。

若い衆よ、いったいどこに行った?あの素晴らしい地域社会を壊したのは誰だ!(私も若い頃は、地域社会に興味はありませんでしたが。。。)

と、書くと、運動会が盛り上がらなかったように見えますが、猛スピードの人がいたり、幼稚園の運動会のように簡単に転んでしまう先輩方がいたり(怪我がなければ良いのですが)、リレーは順番がころころ変わって見応えがありました。

「年寄り笑うな行く道じゃ。」ですけどね。