無題

今年のゴールデンウィークはおとなしく過ごしています。休みに入る直前に息子が胃腸炎にかかり、それがお嫁ちゃんにも移ってしまいました。どうやらウィルス性のようです。ダウンしたお嫁ちゃんに替わって、4月29日(金)は、久しぶりに家族の食事の支度をしました。

4月30日(土)は、北洲さんから地震で割れた塗り壁の補修をしてもらいました。矢巾町では震度6弱でしたが、やはり、県南の方はもっと揺れたらしく、そちらに比べれば割れ方はましなようです。仙台では、職人さんの不足で、補修などがはかどらないようです。残念ながら津波に流され、それでも、2階に逃げて頑丈な2×6のおかげで命は助かった方もいたそうです。

5月1日(日)は、ブログ、Facebookの修正・更新を行いました。そして、3月18日開催予定だった煙山小学校の「卒業を祝う会」で、紹介するつもりだった、担任の先生方の似顔絵をここに掲載します。

(リンク切れ)

この絵は、先生方に贈った”卒業生メッセージアルバム”に使ったもので、地震前に漫画家の松山フミ先生に懇願して描いていただいたものです。快く引き受けて頂いた先生のご好意を封印したくなかったので、掲載することにいたしました。

 

10日間を振り返って(その3)

3月13日(日)

食料の確保のため、マックスバリュに並ぶ。2時間ほど並んで買い物をする。米の確保ができて一安心する。ホーマックに並んだ人の情報から、既に電池は品切れであることを知る。

午後、電気工事会社の人がうろうろしている。家の後ろにある倒れかけた電柱を、引っ張って元に戻すのだという。それ以外にも、電力会社の人がいるので、もう停電から復旧しているのかなとブレーカーを入れたところ、照明が点灯。家族一同喜ぶ。

明るいうちに給湯・暖房機器の動作確認を行う。石油ボイラの動作確認OK。温水暖房機コロナUHBーG1000Hのは、電源を入れても燃焼エラー。パネルを開けて、定油面器リセットボタン(赤色)を押して復旧すると直った。

午後あたりから、SoftBankのサービスが使えるようになる。PTA役員に、祝う会の中止を打診し了解をもらう。

3月14日(月)

出勤し、学生の安否確認、転倒・落下の激しかった職場の復旧作業、年度末の事務作業を粛々と進める。お嫁ちゃんから電話が入り、宮古の実家や叔父さんらは無事であることが確認できたとのこと。家も被害がないとのこと。叔父さんが、携帯電話が繋がる花原市まで車で走って、連絡をくれた。

小学校に「卒業を祝う会」の中止を申し入れる。先生方12人も含め、211人が参加する祝う会だったのに残念。代替手段で、先生に花束・メッセージアルバムを手渡す方法を検討する。

3月15日(火)

出勤し、引き続き復旧作業、年度末の事務作業を粛々と進める。宮古のお義父さんらは無事であることはわかったが、食料が心配になる。無事であっても、それはそれで次々と心配ごとがわき出てくる。

PTA役員の皆さんと相談して、祝う会の会費(一家族あたり1,000円)のうちの食事代(茶菓子)は返金せず、震災被災者への義援金とすることを決める。保護者の皆さんが理解・賛同してくれることを信じ、お知らせ文書をつくる。

3月16日(水)

出勤し、引き続き復旧作業、年度末の事務作業を粛々と進める。

PTA会長さんから電話があり、小学校卒業式後の保護者代表の謝辞は大丈夫かとお気遣いの電話をいただく。何も準備していない。

3月17日(木)

卒業式前日、娘の最後のランドセル姿。このランドセルは、もしかしたら寄付することになるかもしれない。

出勤し、引き続き復旧作業、年度末の事務作業を粛々と進める。

帰宅後、明日の小学校卒業式の後に述べる保護者代表の謝辞の原稿をつくる。この事態なので、冒頭をどのようにすれば良いのか悩む。先生に贈るメッセージアルバムのうち、3組のメッセージが一人足りないことに気づく。慌てて、全てチェックする。足りない一人は、連絡用の袋に入っていた。危なかった。これで結構な時間をロスし夜遅くなったので、眠くなる。謝辞の原稿は翌朝考えることにする。

3月18日(金)

娘の小学校卒業式である。朝5時に起きて、謝辞の原稿の検討・手直し。保護者の皆さんへの義援金の説明、担任の先生に渡す花束、メッセージアルバムを渡す段取りなどもあって、心のゆとりなし。ビデオカメラの充電、メモリカードの空きもチェックでしないまま急いで家を出る。

卒業式の開始前に、震災で犠牲になった方々への黙祷、強い余震があった場合の避難誘導説明等がある。

卒業生の入場で、感動的な式が始まった。大変な1週間であったが、このように予定どおり実施できたのは、本当に幸せなこと。しかし、ビデオカメラのバッテリー切れで、撮影できたのは入場の3分だけ。

卒業証書の授与で、一人一人名前を呼ばれて受け取っていく。皆、立派でりりしい。感慨深いものを感じつつ、まだ固まっていない謝辞の原稿を修正する。校長先生の式辞を聞き、新たに謝辞に加えたいこともあり追記していく。会場は寒く、トイレに行きたくなる。

卒業式は終了、謝辞も何とか終え、記念写真撮影、そして最後のホームルームへ。無事、各クラスの役員さんが子どもたちを通じて担任の先生に花束とメッセージアルバムを渡す。終わった。今年の6学年PTAの仕事が終わった。

昇降口で記念撮影し、学校を後にする。午後は、しばらく休む。

次は、何としてもガソリンを入れることと、宮古のお義父さんらの見舞いだ。

3月19日(土)

普段、自家用車を使わない生活なので、この状況下でどのガソリンスタンドに行けば確実に給油できるのかよく分からない。偵察のため、自転車で、流通センター方面からガソリンスタンド巡りをする。

流通商事さんのGSに車の行列があるが、ガソリンスタンドでは「この連休(19日〜21日)は無理です。」との説明。

北に進むと羽場から盛岡南ICを通じて友愛病院のESSOまで、行列が出来ている。これは凄い。でも、給油できている様子なので、まず第一候補にする。津志田のマックスバリュで、宮古に持って行く食料を調達する。米10kgをリュックに入れたのは大失敗。この後、4号線を南下して矢巾に戻るのだが腰と尻がかなり痛い。自転車のかごに入れるべきだった。

ホーマック都南店の近く、ユニクロ向かいのガソリンスタンドも営業中で、4号線にこれまたすごい行列が出来ている。見前のジョイス辺りまで並んでいたか。

この日、営業していたのを確認できたのは2店だけだった。米10kgを背負って、都南一周してぐったり。早めに就寝して、翌朝のガソリンスタンド並びに備えた。

この後は、3月21日の日記に続く。

10日間を振り返って(その2)

3月11日 地震後

屋外には、卒業式後、帰宅しようとしている学生や親子が沢山いる。帰りの支度ができた者から、少しずつ帰宅していく。学生の安否確認や被害状況の集約のため、皆、事務室に詰める。JRが止まり、どうやって帰ろうか思案中の学生や職員。遠方のため帰れない学生や親は、緊急的に学生寮に宿泊することになる。

ラジオから、沿岸各地に津波が来て被害が出ていることが続々と報告される。沿岸に家族がいる職員らも疲れ切った表情。私もお嫁ちゃんの実家のことがたまらなく心配になる。

道路は、停電による信号停止による渋滞が始まってくる。たびたび来る余震に、みな警戒し、時折屋外に避難しようとする。雪が降ってくる。

停電のまま、17時を過ぎ、暗くなってくる。電話もなかなか通じず、出来ることが限られてくる。たまたま、お嫁ちゃんと電話が通じて、家の被害は無いこと、早く帰ってきて欲しいことを伝えられる。また職場に戻ってくることにして、一時的に帰宅する。

帰り道、線路をくぐる地下道を通ろうとしたが、浸水して利用できず。その場で、若者が、落とした携帯電話をノートパソコンのディスプレイの明かりを使って探している。確か、見つかったはず。「気をつけてください。」とお互い声を掛け合って分かれる。こういう時は、知らない者同士でもこんな気遣いができるのだ。矢幅駅通路も真っ暗だったが、目をこらして何とか通り抜ける。

3月11日 帰宅後

家族3人が、スキーウェアなどを着てリビングに待機している。乾電池式のランタンを明かりにして、テーブルに家族が揃う。ブレーカーを下げる。

余震が来るたびに、「お家が壊れる。」「これからどうなるの」とボロボロ泣き出す子供たちに、大丈夫と言い聞かせる。

地震後、コンビニで幾つかのカップラーメンは調達できた。週末の買い物の前のため、やや食材が不足し、米も残り少ない。断水ではないようだが、念のため風呂や鍋・やかんに水を張っておく。娘の林間学校用に買ったヘッドライトが本当に重宝する。

ラジオで、沿岸の被害状況をきく。津軽石地区も被害が甚大、宮古市役所が孤立、マースの上の階に避難者が居るとの情報に、ますますお嫁ちゃんの実家が気になる。家が巨大な波におそわれるのを想像してしまう。ちゃんと逃げられたのか、気になって仕方がない。「甚大」というこれまであまり使われなかった言葉が何度も繰り返され、事態の深刻さに憂鬱になる。

夜8時頃、八幡平市の実家に電話するも呼び出し音は鳴るのに誰もでない。その地域の被害状況は全くニュースになっておらず、あの激しい揺れに、家が倒壊したかあるいはタンスなどの下敷きになって動けないか、どこかに避難したのか、いろいろ想像する。とりあえず安否確認のメールを送る。

子供たちは、それぞれ大事なものをリュックに入れてそれを車に積み込み、いつでも逃げられるようにしていた。息子は、数日前に買ってあげたラジコンも車に積んでいた。今考えれば、その後どうしようとしていたのか謎。

一度、職場に戻り、再び21時頃自宅に帰る。途中、コンビニが営業していたので寄ってみる。ご苦労さまです。ラーメン、そば、うどん類はなく、辛うじて米1kgがあったので買っておく。

家族みな食欲がなく、何も食べずに寝ることにする。とにかく余震が怖いので、キャンプの寝袋を出して皆1階に一緒に寝る。この時点で、私としては1週間の停電・食料供給ストップを想定していた。

3月12日(土)

朝、5時頃起きる。天気が良いのが救い。食料品を調達できるかどうか偵察するため、6時頃、街に徒歩で出かける。途中、藤原さんと会う。その時間帯では、当然無理だった。南矢幅12地割付近で、道路の陥没が多数あり。陥没にはまり、動けなくなって放置されている自動車あり。携帯電話は繋がらないこと、バッテリーの節約のため電源をオフにしていたが、オンにしたところ八幡平市の親からメールが届く。メール打ちが不慣れなせいだと思うが、「だいじょうぶだ4」とふざけた文面。しかし、安堵する。

帰宅し、前日に食べなかった昼の弁当を食べる。前日に職場で「卒業を祝う会」があって会食があり、弁当は食べなかったのである。その予定をお嫁ちゃんに伝えていなかったので余計な弁当を作らせてしまったのだが食料不足には少しだけ幸いした。

その日、問い合わせ対応、職場の点検等のため出勤する。出勤途中、コンビニが開いたので、とりあえずお菓子を沢山買い込む。

学生寮の様子を見に行くと、男子学生は談話室に集まり、女子学生は管理人さんの部屋に集まり、一夜を明かしたとのこと。食料はかき集めて何とかなっており、ブレッドボードを使って、乾電池式の携帯充電器を自作している電子技術科の学生もいて、雰囲気は明るく、少し安堵する。

大船渡職業能力開発センターの職員の家族から、職員の安否確認の問い合わせ電話を受ける。県庁でも現地と連絡が取れない状況であったが、その日のうちに無事であることが確認される。うれしかった。

午前までは通じていた職場の固定電話が、午後は不通になる。

ラジオで、盛岡市内丸付近で停電から復旧のニュースが流れる。想像していたよりも早い復旧で希望が沸いてくる。

陥没した道路の復旧作業、その現場監督をしているPTA役員の佐々木さんとばったり会う。この事態なので、小学校の「卒業を祝う会」の中止を打診する。その方向で進めることにする。

同僚の職員の話によると、矢巾のマックスバリュは開店しているものの、5時間待ちでやっと買い物が出来たとのこと。余震が心配されるなか、お嫁ちゃんも子供を置いて出かけられまい。自分の生活が心配になる。

食事を抑えていたので、昼のカップラーメンに息子が感激したらしい。それまで、カップラーメンは好きではなかったのに、その日は「おいしい!」と大喜び。

太陽光発電の隣家の方で、炊飯器でご飯を炊いてもらう。

我が家では、この日も宮古(実家、叔父さん宅)や仙台(お嫁ちゃんの姉夫婦)と全く連絡がとれず。

夜は、ランタンやヘッドライトの電池の節約のため、6時に就寝。余震も何とか大丈夫だろうということで、自分たちの部屋に寝ることに。

夜、トイレに起きた時に、外の様子を見ると田園ホールの音符のマークが光っている(後から聞くと、この日の夜に既に通電していたらしい)。

10日間を振り返って

3月11日のその瞬間を境に、生活ががらりと変わってしまいました。それでも、日常の生活を取り戻しつつある私たちは良い方。次々と悲しい現実に直面する方々がおられる。

職場からは、沿岸の支援ということで何名かが寝袋・食料持参で派遣されました。通常の業務をこなしている自分に少し歯がゆさを感じていますが、当面は自分のような役割も必要なのだと、「無用の用」として支えていくことも大切なのだと自分に言い聞かせて日々過ごしています。

しかし、いつまでも悶々として生活する訳にもいきません。地震前後の我が家族の生活の記録も残して、気持ちの整理をしたいと思います。

3月9日(水)11時45分頃

職場で、学生の内定先企業の柴田さんから電話があり、その最中に強い揺れを感じた。周りの職員、学生も騒然となる。

「怖い。落ち着いて話ができないので、すみません、ちょっと待ってください。うわっ、怖い。今、どちらですか?大船渡?揺れていませんか?」

柴田さんは屋外にいるのか、地震の揺れを感じている様子はなかった。振り返れば、やっぱり我が職場の4階は揺れが大きい。

3月10日(木)

朝、外の景色を見ると、天気は良いのに空気が黄色っぽい。黄砂かと思って気象庁のサイトを見ても、それは観測されていない様子。お嫁ちゃんと、「気持ち悪いな。大地震が来るのではないか。」と会話をする。

夜、PTA役員で集まり、娘の小学校卒業式(3月18日)後に行う「卒業を祝う会」の打ち合わせをする。18時30分から公民館の閉館時間21時30分ぎりぎりまでかかる。シナリオ・役割分担、食事(お菓子)のメニュー、余興、花束・メッセージアルバムの贈呈方法など大いに盛り上がる。

3月11日(金) 14時45分頃

(職場)

午前中に職場の卒業式を終え、教室で、卒業する学生に卒業証書などを手渡しする。最後に情報技術科職員・学生全員で記念写真を撮って解散。職員室に戻り、一息ついているときに、突然、聞き慣れない警告音がなりひびく。O先生が携帯を見て「緊急地震速報だ!」と叫び、(確か)部屋から出飛び出す。

すぐにズズズズ・・と揺れはじめ、横揺れが始まる。棚の上にあるテレビが落ちてはいけないと思い、まずは支える。しかし、揺れは強くなる一方で、怖くなり、棚から離れる。

そこからが長かった。これでもか、これでもかと揺さぶられ続ける。テレビは棚ごと倒れ、書棚の本はすべて落下し、通路に山となる。机の上の携帯を見ると、着信履歴が1件。お嫁ちゃんからだ。彼女は、大地震のときは、繋がりにくくなる前に必ず電話をかけてくる。揺れている最中であっても。

揺れはなかなか収まらず、部屋から逃げ出すタイミングを失う。物がどんどん落ちるのを見ているだけ。「うわー、信じられねぇ!」と連呼していたと思う。本当に恐ろしかった。

揺れが収まったところで、崩れ落ちた本を踏んづけて廊下に脱出し、4階は怖いということで屋外に避難する。

あまりの激しい揺れに、家が相当壊れたのではないかとお嫁ちゃんに「大丈夫か」とメール。約1時間後に、「大丈夫」の返事が届く。

(我が家)

その時、お嫁ちゃんは、2階で洗濯物を干していた。娘は、2階の自分の部屋で固まった状態で動けず。息子は1階に居て、2階のお嫁ちゃんが「今、下に行くからね!」の声がけに対して、「来なくていいよ!」の返事をしたという。頼もしい息子よ。

我が家の被害は次のとおり。2008年の「岩手・宮城内陸地震」、「岩手沿岸北部地震」では被害がなかったので、今回の地震はやはり大きかったと言える。

・電子レンジが落下・損傷。

・壁のCDラックから、CDが全て落下。

・タンス、冷蔵庫、ピアノが数センチ移動。

・ケンコート塗り壁2〜3カ所がひび割れした。今後、補修はしないで残しておく予定。

・家の基礎の上部の1カ所が、モルタルとともに剥離した。3〜4センチのかけら。基礎の強度には影響がないはず。

(八幡平市の実家)

数日後に確認したが、棚の上に沢山ある写真楯も倒れず。私が生まれた年にあった十勝沖地震が一番すごかったと、両親の話。

(宮古市の実家)
揺れによる被害はなし。

無題

紀要の原稿執筆、学生の就職指導、某団体の事務局長としての活動が重なって、かなり多忙な日々を送っていました。何とかピークをしのいで、精神的に少しゆとりが出た休日でした。

今日からいっちゃんを雫石のスキースクールの2月コースに放り込みました。送迎つきの4回コースで23,000円です。先週までは一緒にスキーに行っていましたが、毎回同行するのは経済的に大変なので、安上がりで食事付きのこちらのコースにお世話になることにしました。朝、バス乗り場(盛岡南イオン)まで送っていって、後はフリーな一日。と言っても、お嫁ちゃんと食料の買い出しに行ったりして、普段とあまり変わらない生活なのです。それでも、うるさい息子がいない貴重な休日という感じがフリーなのです。

午後は、我が新田行政区の分割に係わる説明会に参加しました。矢巾町のコミュニティ条例は、制定時、行政区当たりの世帯数の目安として、農村部150世帯、都市部を250〜300世帯の設計だったそうです。ちなみに我が行政区は460世帯、人口1,400人を超えており、矢巾町の中で2番目の規模らしいです(最大は高田2区)。

小学校の子供会も140人を超えており、役員の方々も大変な苦労をされています。元々、行政区の規模が大きすぎるなと感じていたので、今回の分割案に対しては賛成の立場です。今日の説明会も、行政区の方々の忌憚のない意見を。。という趣旨であったのに、反対意見もなく、概ね了承という雰囲気でした。

ただ、学区の再編の可能性もあるので、「(子供たちが通うであろう)中学校が今と変わらないことを確認できると安心できますが。。」と質問したところ、学区の再編は行政区の再編と異なる要因で検討していくので現段階では何ともいえないという回答がありました。その不安は解消できませんでした。しかし、そもそも学区が変わらないイコール幸福、学区が変わるイコール不幸と決まっているわけではありません。環境の変化を受け入れる、心構えもしておきましょう。でも、どうか杞憂でありますように。

夕方、いっちゃんが無事、スクールを終えて帰ってきました。頬にカットバンを貼っています。転んだらしいです。

まだ、ハの字で滑っていますが、今回はゴンドラに乗って頂上まで行ったと言っています。アルペンコースを滑ったんですか??雫石スキースクールのコーチの方々、素敵過ぎます。やっぱ、教わるならココなんですね。某スキー場とは大違いだと思います。

以下、雫石スキー場のアルペンコースの紹介です。

「世界アルペン女子ダウンヒル」開催コース。全長4.5kmの中・上級者向けのコース。ラインを読み切る力、滑走技術と体力、そして滑り切る勇気が求められます。

http://www.princehotels.co.jp/ski/shizukuishi/coursemap/index.html

今度一緒に頂上に行こうと誘われました。

(((((( ;゜Д゜)))))ガクガクブルブル