リーダー研修会

9月16日(土)、17日(日)の2日間、国立岩手山青少年交流の家で行われた矢巾町子ども会育成会連合会主催の「子ども会リーダー研修会」にスタッフとして参加しました。この研修会は、子ども会リーダーとしての役割を学び自覚を持つこと、宿泊学習、集団生活を通じて協力し合うこと等を目的として毎年開催されています。

今年も次年度のリーダーとなる5年生約60名が参加し、10班編成で、様々なグループワークを通じて、協調性、集団行動の規律、養いました。矢巾町ジュニアリーダー(スパイダー)の皆さん、室さんで、楽しく、時には厳しく指導を頂き充実した2日間を過ごしたことと思います。参加者は初めて会う他小学校の子供たちともすぐに打ち解け、竹ひごタワーや野外ウォークラリー等でチームワークの良さを発揮していました。2日目には、研修プログラムのスケジュールを意識した行動がしっかり出来るようになっており、研修の成果を感じました。

少し残念だったのは、ある子が良い意見があってもそれをが埋もれてしまうなど、話し合い、課題の進め方にもう少し落ち着きがあれば良いかなとは思いました。でも5年生なら仕方がないかもしれません。我が息子も数年前、、5年生の頃にこの研修会に参加しました。うるさかったでしょうね。

今年度は、ある班の世話役になって、すべての食事を子ども達と一緒にとりました。例年、食べ過ぎで研修に支障が出るケースもあるとのことで、次々とお替りをする男の子達にヒヤヒヤしましたが、一方で、食が細い女の子達の中にあっても、小さい体なのにガンガンお替りする強者も。痩せの大食い素晴らしい!

そして、カフェテリア方式の岩手山青少年交流の家の食事が美味し過ぎます。

戦争ドキュメンタリー(3)

樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇(8月14日放送)

玉音放送の後でも、ソ連と戦った樺太(サハリン)の日本陸軍師団と巻き添えになった民間人の記録ドキュメンタリー。私の母が、樺太で生まれているので興味深く視聴した。

停戦後であっても、ソ連の侵攻を食い止めるべしの大本営命令を受けて戦った現地師団は、武器弾薬が乏しい中、民間人の少年なども兵士として養成、投入した。満州、朝鮮半島、そして樺太を大国との緩衝地帯として、明治以来、ロシアそして後のソ連の南下政策に必死に抗ってきた日本としては、この地を譲ることができなかったのだろう。当時を振り返る老女の「露助」という表現は、当時の常識だったであろうソ連に対する憎しみと軽蔑を如実に表していた。

ルーズベルトの死去という幸運もあって、北海道の一部占領は免れた。長年のロシア・ソ連の侵略をしのぎ今の日本の繁栄があり、米ソの代理戦争であった朝鮮戦争が後を引く現在の北朝鮮情勢があることを思えば、あの戦争は過ちだったとは言い切れない。

戦争ドキュメンタリー(2)

731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~(8月13日放送)
よくぞ、この時間帯にこの事実を放送したものだ。

この史実を題材にして、以前中国かどこかが制作した映画をレンタルして見ようとしたことがあるが、日本人が本当にそんなことをしたことを受け入れられずに途中で見るのを止めてしまった。従軍慰安婦とは比較にならない恥ずべき史実だと私は思っている。

旧ソ連で行われたハバロフスク裁判の音声記録は、その昔、森村誠一の「悪魔の飽食」、吉村昭の「蚤と爆弾」で取り上げられていた人体実験を裏付けるものだった。

ただ、それ以上の衝撃的な事実が出てこなかったことには安堵した。

戦争ドキュメンタリー(1)

毎年8月になるとNHKスペシャルで太平洋戦争のドキュメンタリーが放送されるので、永久保存用として必ず録画している。今年の終戦記念日前後に放送された3つの番組は、なかなか見応えがあった。

本土空襲 全記録(8月12日放送)
サイパン陥落によって、B29による無差別爆撃が行われるようになった日本本土だが、硫黄島玉砕によってB29の爆撃隊に戦闘機の護衛がつくようになり、その後完全に制空権を失った日本。戦闘機の役割は爆撃機の護衛から、機銃掃射による地上施設への直接攻撃になったという。ガンカメラのカラー映像は、機銃から逃げる人の映像、銃弾を浴び続ける全国各地の軍施設、学校、駅、鉄道車両等を捉えていた。犠牲者の数は少なくとも45万人だと言う。

(ここからは番組を見て思い出した話)
ガンカメラの映像は、番組名は忘れたが、以前、民放の番組でも扱われていた。この時は、機銃掃射を受ける盛岡駅の映像があった。
調べると盛岡は東京大空襲のあった3月10日にB29による爆撃を受けていたらしい。機銃掃射は8月10日。
以前、世間話で、岩手県職業能力開発協会の会長を務められた竹原冨士雄さんから盛岡の空襲の体験談を聞いたことがある。2度ある空襲のどちらの話であるかは不明だが、焼夷弾を落とされたが、宅内に落ちた子爆弾が不発で、竹原さんの父親がそれを屋外に放り投げ消し止めたこと、大川原には隧道(トンネル)があり、その中に避難した人達、特に婦人達が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え恐れおののいた話だったと記憶している。

戦後72年となり、戦争を経験した存命の方が少なくなりつつあるが、両親や祖父母から聞いた話、先輩方から聞いた話を語り継いでいく必要はあると思う。

3年ぶりの釣り

息子の3年間のハンドボール生活が終わりました。

3年連続の全国出場はならなかったものの、東北大会にコマを進めた、息子達の代も強かった。先生の指導手腕によるものですが、厳しい練習についていった生徒達も素晴らしかった。

ということで、やっと時間のゆとりが出来たので、中学に入って初めての海釣りに言ってきました。お嫁ちゃんの実家に行ったついでです。

場所は、宮古市の重茂半島の白浜。小雨の中の釣り決行になりました。

釣果がゼロでなくて良かった(^^;)
釣った魚の名前が、わかりません。ソイ?