今日は高校入試の合格発表

と言うことで、昔のことを思い出しました。

昔は、ラジオで何時間もかけて合格者の名前を読み上げていましたね。

更に思い出しました。

当時、松尾中学校から盛岡工業を受験したのは3人。合格発表前(中学卒業前の登校日?)に、盛岡の高校を受験した何人かが職員室に呼び出されました。話の主旨は「お前達は、合格は間違いない。発表当日、高校に出向き、一緒に受験した全員の合否を確認して中学校に電話連絡するように。」ということでした。

結果は、3人共、合格でした。その日は、予約していた下宿に挨拶に行ったりして、学校への連絡が遅れ、先生を心配させたという記憶があります。

 

渡舟遭難慰霊碑

都南大橋の袂から北上川に沿って北へ続く堤防の道、サイクリングロードを晴天の日に歩くのはとても気持ちが良いです。息子がフジサワテニスクラブで練習している90分の間、条件が良ければこの道を歩きます。

綺麗に作られた畝には、いつも関心させられます。天気が良い日にしか来ないので、土はいつもパサパサです。市街地のすぐ裏にこんなにのどかで良い場所があるのですね。

ところで、この堤防沿いに「渡舟遭難慰霊碑」があり以前からとても気になっていたので、都南図書館で、このことについて調べてみました。昭和14年10月2日の事故のことです。

以下、「都南村誌」(昭和49年刊)から引用します。まずは、この付近の歴史から。

天明二年(1782)の「邦内郷村誌」に、北上川の東西地域を結ぶ渡船場として、西徳田、高田、見前町、三本柳の四渡船場があったことが記されている。
北上川に架橋ということは容易なことではなく、昭和三十七年(1962)、漸く徳田橋が工費1億3000万円で完成をみてから、渡船場も廃止され、現在は三本柳渡船場を残すのみとなった。

昭和49年頃までは渡船場があったとは驚きです(でも、確かに都南大橋も1982年竣工と私から見れば新しい)。引き続き引用します。

県立農学校が、津志田にあった頃である。学校の私設渡船場が、津志田と門を結んでいた。昭和十四年(1939)十月二日、門の実習地の麦蒔を終えた二年生が、帰校のとき満員の渡船が浸水して沈没し、犠牲者10人をだすという悲しい事故もあった。
渡船場の運行は、こうした危険を伴っているのである。

県立農学校とは今の盛岡農業高等学校のことで、昭和41年に跡地を盛岡第四高等学校に移管しています。話はそれますが、盛岡高等職業訓練校(後の盛岡高等技術專門校、廃校後は岩手県立産業技術短期大学校に再編)、岩手県工業試験試験場等も昭和40年台前半にこの跡地付近に移転しているので、農業高校故かなり広大な土地だったのでしょう。

碑の背にはこのような記述がありました。
「昭和六十三年十月二日  遭難五十回忌に際し同窓生之を建つ」

事故から五十年後。現役を引退し第二の人生を歩み始めた同窓生の皆さん、ずっと心の中に秘めていたかつての仲間への想い、それをやっと形にしたものということでしょうか。

平成26年度スタート

新年度がスタートしました。天気が良くて、なかなか良い一日でした。

仕事の方は、久しぶりの就職指導担当です。消費税増税の影響が怖いけれど、みんな、しっかりと決めて欲しいです。自ら切り拓け、スペシャリストへの道!

娘も高校生になるし、彼女に関する親ばか日記はそろそろ止めにしましょう。いろいろ、厳しい現実もありそうだし。。。小6の息子のために、もっと時間を割く!。中学に入ったら、なかなか応援できそうにないから。

今年度から、自治会の運営委員も引き受けました。元々、広報委員を引き受けており、コミュニティだよりのためのネタ探しも楽になるかと思いまして。夏まつりとか文化祭の手伝いは、面倒くさそう。。。まあ、先輩方に従って頑張ります。

PTAからは少しずつ離れていきます。誤解しないでください。活動には精一杯協力するつもりです。

しばらくご無沙汰しているSKK、いつまでも逃げているわけには行かないでしょう。

ということで、一杯やりながらの書き込みでした。

 

 

お返し

SE(システムエンジニア)が休日、深夜に仕事をすることは珍しくありません。詳しく書くと差し障りがあるかもしれないので、架空の話として書いておきます。いや、架空の話です。

3月下旬の3連休は、某顧客(私ら)の新システムの本番環境への移行ということで、SEの皆さんは客先への休日出勤となりました。それに対して、顧客側も、守衛的な立場での出勤が余儀無くされました。

私が出勤した2日目、作業は20時までのスケジュールでしたが、SE側から作業時間を延長してもらえないか?夜の何時まで可能か?という相談がありました。前日も約束の20時を過ぎて23時近くまで作業したらしい。どうやら、うまくいかないことがある。作業の延長を申し出ることはSEとして不名誉なことでしょう。しかし、元々、2ヶ月掛かる作業を顧客側の事情によって1ヶ月でお願いすることになっていたもので、ここはシステムエンジニア魂に敬意を払うべきです。ちょっと考えて、

「とりあえず、22時までにしましょう。その時の状況で、また判断しましょう。」

と返事をし、作業を続けてもらうことにしました。

返事をしたものの、私は、22時まででは全然時間が足りないのではないかと不安になり、作業室に向かい、何故か食事のことを聞いてしまいした。実は深夜過ぎまでの作業を覚悟したのだと思います。

「皆さん、食事はどうされるんですか?」

リーダーの女性SEからは、かしこまりながら、とても誠意のこもったお返事が。

「私どもの都合で作業の延長して頂いているので、食事は、全ての作業が終わってからとる予定でございますので。。。」

それは、そうですよね。。。馬鹿なことを聞いてしまった。

私は食事のため一時外出します、と言うことで一時帰宅しました。娘の高校入学準備で疲れ気味のお嫁ちゃんは、SEの仕事振りに「何やってんのよ」と呆れ気味でしたが、そもそもの経緯を説明すると理解してくれました。家で食事をしながら、SEの皆さんの食事がとても気になって来ました。何か差し入れを持っていった方が良いのではないかと。

なぜ、気になったのか。それは、20年以上前の自分の立場を思い出したからです。

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東京都に納めるシステムのプロジェクトに関わっていた私も、やはり本番環境への移行、都庁での深夜の作業に従事していました。深夜作業後の仮眠に使った会議室、そこから見た、地球の丸さがわかる程の東京都の夜景も思い出しました。そう言えば、あのプロジェクトに従事していた時、夜遅く、東京都職員の島田さんからマクドナルドのハンバーガーの差し入れがあったな。。。。

食事を終えた私は、お嫁ちゃんの了解を得て(私は尻に敷かれている)、スーパーで10名分のパン類を買い込み、夜の職場に戻りました。

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翌々日、リーダーの女性SEから、お返しの土産を頂きました。そんなつもりではなかったので申し訳ありませんでした。

「とても、勇気づけられました。。。」

「えっ!!」

自分の気持ちが伝わったのだと、とても嬉しくなりました。

三連休・・・疲れた。(下)

(前回からの続き)

職場帰りに、キャッチボールをしている親子を見ると、PTA会長職を引き受けたり地区の自治会役員を引き受けたりしたことを後悔してしまいます。我が家は核家族で、お嫁ちゃんにも負担がかかっています。三連休前半の2日間も、それらの活動に捧げてしまった。もう、やらない!もっと息子と過ごす時間を増やさねば!

そういう意味で、三連休最終日は楽しい一日でした。

11月4日(月)

フジサワテニスクラブ主催の「フジサワジュニアチャレンジマッチ」に息子が出場しました 。楽しい!楽しすぎる!!

優勝で、ステップアップの部を卒業できました。レッスン以外ではほとんど練習時間が取れませんでしたが、良くやった。11月からはレギュラーコースに進級しましたし、これから力を入れていかないと。。。それよりも、ヨネックス+アディダス+ナイキ+ヨネックスのこの格好を何とかしてやらないと(笑)。

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午後は、高校受験を控えた娘、家族全員で、第36回岩手県高等学校総合文化祭美術工芸展の見学に行きました。場所は岩手県民会館です。進路選択に多少の影響があるかもしれません。

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夜は息子のレッスンで、再びフジサワテニスクラブへ。11月から、中学生と一緒に練習しています。