運動会

25日(土)は、息子の運動会でした。

今年はPTA会長としての役割があったの朝から心の余裕がありませんでした。前日はがっつりと職場の飲み会、運動会の挨拶も当日の朝5時から考えるという準備の悪さ。カメラの準備にも手抜かりがあり息子の大事なシーンを撮り損ないました。

煙山小学校の運動会は9回目で、来賓席から見学したのは初めてです。競技の一番最初が息子の学年の徒競走でした。そのまま来賓席から応援しようか、ゴール付近でお嫁ちゃんと一緒に撮影などしようか迷いました。悩んだ末に後者を選びお嫁ちゃんを探しましたが見当たらず、結局、一人で撮影することにしました。

そんなことで時間をロスしたので、あっという間に最終組のレースで息子の登場です。慌ててビデオカメラを回したら。。。

「カードがロックされています。」

終わった。

特等席を捨てて駆けつけたのに余りにも酷い仕打ち。がっくりです。

話は変わって、来賓席から見る運動会はあらゆる面で子ども達との距離が近く、姿、表情がよく見えました。児童会長の挨拶は立派だし、徒競走で走る子ども達の一生懸命な表情、無言でタタタタ。。。が本当に印象的で心から応援です。

また、来賓の接待係の子ども達が上品・上手。その昔、娘も担当していたので余計にそう思ったのでしょう。勧められるままにお茶を頂いていたら、応援合戦の審査のときトイレに行きたくて仕方がありませんでした(審査に影響はありません)。

さんさ踊り、マーチング、リレー等など見ながら、娘の頃の運動会を思い出しました。なぜこんなに昔のことを思い出すのだろう。俺、死ぬんじゃないだろうか。。

校長先生が隣でよく写真を撮っていたので、最初は撮影を遠慮していた私もだんだん麻痺してきて何度かカメラを使いましたが、肝心の息子は遠いポジションばかりでした。席が良くても自ら動かないと駄目だとあらためて思いました。

せっかくのリレーも一眼レフが電池切れで、予備のコンデジで何とか撮ったぐらいです。来年は最後、しっかり準備して臨みたいものです。

運動会は大成功に終わりました。予定より数分遅れだと残念がっている先生がおられました。数分遅れなのに。何の問題ないじゃないですか!先生方、すごい。。。

日本の鉄道と並び日本の「UNDOKAI」は世界に誇れる時間の正確さなのですね。

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話は遡って、18日(土)は娘の運動会「皐月祭」でした。このブログでは、たまに娘と繰り広げる親子の葛藤を書いていますが、腹立たしいことが多すぎて彼女の応援に行くのも少々煩わしく感じていました。

天気は晴朗なれども、娘への期待なし。小1からずっとリレーのメンバーだったのに、今年は無しというのも残念でした。

それでもムカデ競争以降は応援しました。家での表情とは違い、明るい表情でみんなと頑張っている。悪く無いじゃん!

以下、その様子です。赤組の皆さん、ゴメンナサイ。

閉会式では、更にうれしい事がありました。娘が積極的に関わった、手も口も出したマスコット製作が最優秀賞に選ばれたのです。リレーには出られなかったけれど、この手があったか!

あらためて近くで見ると、繊細に描かれている部分がたくさんあることに気がつきました。どこに手と口を出したか家に帰ってから聞きました。良くやったな!

 

皐月祭

今年の皐月祭もまた快晴の最高のコンディションでした。

しかし、我が家の気分は超フツーでした。練習の時から娘がとにかく冷めていました。個人競技出場のチャンスもあったのに断ったらしく、何だか期待感が薄い一日だったのです。

それでも競技を見ると、ん?張り切っているではないですか。

期待感が薄い一日でしたが、最後のリレーはハラハラドキドキ。カメラを持つ手が汗ビッショリ。
((;゜Д゜)ガクガクブル… こんなことがありましたから。
娘が所属する団はちょっと残念な結果となりました。最後のリレーでも少しミステイク(娘ではない)があって、帰ってから娘は「はぁ〜残念だった。」を連発していました。あんなに冷めていたように見えていたのに。
何だ、いろいろ考えていたことあったのか。少し安心しました。これから上っ面だけで判断してはいけませんね。あと、言わせようと仕向けたのに他者の批判が一切ないことにもホッとしました。

原敬記念館

ゴールデンウィーク5月2日から4日で600km以上走り、大いに疲れた3日間でした。

5月2日(水)は宮古のお義母さんの定期検診のための病院の送迎です。宮古宅から盛岡市立病院まで、朝5時〜夕方5時の間に盛岡〜宮古2往復。慣れきった106号のため退屈な道中でしたが、新しくできた「簗川ダム付替道路」には新鮮な感覚があり、助けられた気がします。

病院待ちの間を利用して、この年齢になり初めて原敬記念館を見学しました。

日本初の政党内閣を組織し平民宰相と言われた原敬元総理。その事実と、盛岡で大きな葬儀を行ったことしか記憶にありませんでした。しかし、記念館で展示されている貴重な資料や説明を見て、キャリアの豊富さ(外交官、新聞社主etc)、薩長閥で回していた日本の国政に風穴を開けた偉大な政治家というのがよく理解できました。

貴重な日記や各界要人からの書簡等が展示されています。直筆のものは私には全く読み取れませんでしたが、わかりやすい解説もついています。これらを、せっせと盛岡に運んでいたため震災・戦争で焼けずに済んだこと。これらを自分の死後直ちに公開してはならぬと遺書に残しているなど深謀遠慮なことにも興味を持ちました。

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その日の夜、滑り込みで町P連の会議・懇親会に参加しました。輪番制により私が町P連の会長になることになりましたが、その後の懇親会でその自覚が足りなかったことに気づきました。

新しい教育長さんを来賓として迎えての懇親会でしたが、私がその隣ということでやっと気づきました。

「しまった!俺、主催者代表じゃん!」(※形式的には)

心の準備が出来ておらず一気に緊張感が高まりました。そこに来賓の皆様が入場です。気のせいかもしれませんが、場もちょっとピリピリ感があったような気がします。私はかなり動揺しておりましたので、会長挨拶もしどろもどろ(いつものことですが)。

「▽※?□!$%&#・・・」

思い出したくないなぁ。毎年参加している同じ場面でも、立場が異なると全く見え方が違ってきますね。勉強になりました。。。

岩泉で手抜きキャンプ

5月3日から娘は青森で部活動の合宿、残り家族3人で1泊のキャンプに出かけてきました。お嫁ちゃんと息子を放ったらかしにした昨年の反省から、今年は絶対に行くと決めていました。

前日の400km運転疲れ、2日連続のP飲み会疲れもあって近場の小柳沢砂防公園オートキャンプ場に申し込もうとしましたすでにサイトは満杯とのこと。冬型の天気だったので西よりも東がマシだろうと考え、ふれあいランド岩泉に行くことにしました。

矢巾から行くには盛岡を通過しなければならず、その時間も馬鹿にならない。朝早く起きて手早く道具を積んで出発、食材の準備が全くできなかったので松園の生協で肉・野菜を買って、そのまま早坂へ。途中、藪川ではみぞれが降っていました。

13時30分に現地に到着。誰もいない。。。管理人さん曰く「寒いけど大丈夫ですか?」

風が強くて、娘1人がいない3人でテント・タープの設営には苦労しました。我々の他に誰も来なかったら寂しすぎると思っていたら最終的には4組来ました。しかし、互いに顔を合わせることも無い寂しい1泊でした。

ゴールデンウィークのキャンプは寒い。息子はどこかに行ってしまうし、袋から出しては順番に食べていくやり方のBBQでさっさと終わらせました。寂しいでしょう?

テントに入って18時、もの凄い睡魔に襲われ、朝までそのまま寝てしまいました。

翌朝の食事は、パンとインスタントスープ、前日の残りの牛肉。息子のテニスの練習があるので、さっさと片付けて出発です。

帰りは早坂を通って市内を通って盛岡南に抜ける。。。その気力が無かったので、農家の嫁の事件簿で有名な釜津田から川井の松草に抜ける県道(大川松草線)にチャレンジすることにしました。お嫁ちゃんからは、「また、訳わかんない道路を通るっ!」とお叱りを受けました。

道沿いの風景などを語りたいのですが、面倒くさいので他のブログなどにお任せ。

釜津田を抜けて民家もなくなったところに、ちょっとした廃墟を発見。旅館?公民館?営林署か何かの事務所?外の窓から中を覗くと、積み重ねられた沢山のお皿や、ニッカウィスキーのダンボール箱らしきものがありました。

さすが冬型です。峠には雪がありました。ノーマルタイヤでちょっと心配でした。

暖かいゴールデンウィークだったら良かったのになぁ。最低限のノルマを果たしただけの今年でした。

 

 

無題

今年のゴールデンウィークも寒い予報が出ています。その後半戦、娘は昨年同様にソフトテニスの合宿に参加予定です。

残された家族3人は、同じく青森方面へのキャンプを予定しています。湖の近くのキャンプ場を予定していますが、まだ予約していません。寒気を怖れて秋田方面に行くかもしれません。

いずれにせよ、P会議3連戦、宮古のお義母さんの病院送迎(盛岡・宮古2往復)と、ほぼ昨年と同じゴールデンウィークになりそうです。