浄土ヶ浜

宮古のお義父さんの見舞いのため、久しぶりに家族全員で宮古を訪れました。見舞いが目的ですが、家族一緒に出掛ける機会も貴重ですので、観光も、ということで浄土ヶ浜を訪れました。震災後に訪れるのはこれが初めてです。

レストハウスも綺麗に復旧しています。初めて来る方はピンと来ないかもしれませんが、ハウスの壁に示された津波の高さから、その自然の脅威が理解できるでしょう。

浄土ヶ浜と言えば、うみねこ。遊覧船に乗って「カッパえびせん」や「パン」で餌付けに群がるうみねこを見るのが楽しい。そう言えば、子ども達は「塩分が多いカッパえびせんをうみねこに与えてはいかん!」と観光客のおばさんに怒られたらしいです。心配性の私も、うみねこの健康状態は気になりますが、子どもを怒らずに、それ用のカッパえびせんを売る店を怒って欲しい(笑)。

こちらは潮吹岩です。遊覧船のガイド金澤明美さんが、波が打ちつけ吹き上がるタイミングで何度も上手に案内してくれるので、その瞬間を捉えることができました。

ということで、久しぶりに浄土ヶ浜を楽しみました。

うみねこがパンを咥える瞬間をCASIOのデジカメEX-ZR15(ハイスピードカメラ)で捉えた映像を最後に紹介します(後継の現行機種EX-ZR800WE)。

最後の小学校運動会

5月24日(土)は、息子が通う煙小の大運動会が開催されました。最近雨が続いていたので天気が心配でしたが、好天の元、ベストコンディションの開催となりました。

しかし、我が家のコンディションはイマイチ。せっかくの最後の年にリレーメンバーから落選するとは!娘の時代から含めて初めての経験で、お嫁ちゃんと一緒にガッカリしていました。

もちろん徒競走も最強の最終組ではなく、更に追い打ちをかけるように、スターターの「用意」の声を聞き逃しスタートで大失敗。終わった。。。それでも、「まあ、仕方ないよな。」と気にせず、親子で楽しい昼食をとることはできました。

面白いと思ったことが1つ。今年は4年生が4クラス編成になったこともあって、運動会は昨年の赤白青の3組編成から伝統的な紅白編成に戻りました。昨年度の優勝は青組、その優勝旗を返す役として、開会式では全校児童の中で唯一青帽子をかぶったのが息子です。親としては大変おもしろく、記念に残りました。よく立候補したね。

良かったことも幾つか。マーチングでは、全体で唯一の楽器で良く聴こえるシンバルを担当しました。演奏を聞きながら、これが息子の鳴らしている音なんだなとじっくり鑑賞できました。騎馬戦でも馬の組み方に工夫していたようだし、総力戦では四方から囲まれて名誉の自滅を選んだ(笑)とか、本人も頑張っていたみたいです。結論から言って最後の煙小運動会は、なかなか良い運動会でした。

PTA会長としての2年目の運動会、挨拶原稿は家に忘れたりしましたが、自称「話せば三流」と決めているので、何とかやることはやりました。応援合戦の審査では、やはり体育館側が有利という説の検証ができました(過去の応援合戦は、かならず体育館側が勝っている)。ごめんね、赤組さん。本当に白組の方が声が大きかったのです(注意!午後の部は対等でしたから、体育館側でなくても勝てる!)。

来賓接待係の子ども達、今年もありがとう!お茶を勧められて、可愛らしいものだから、ついつい断らずに何度も。。。トイレに(爆)。

帰りに同じクラスのお母さんに「PTA会長さん、大変ですね。」と言われましたが、正直に「慣れると楽しいです!」と答えてしまいました。

しかし!楽しいのは運動会だけです。

渡舟遭難慰霊碑

都南大橋の袂から北上川に沿って北へ続く堤防の道、サイクリングロードを晴天の日に歩くのはとても気持ちが良いです。息子がフジサワテニスクラブで練習している90分の間、条件が良ければこの道を歩きます。

綺麗に作られた畝には、いつも関心させられます。天気が良い日にしか来ないので、土はいつもパサパサです。市街地のすぐ裏にこんなにのどかで良い場所があるのですね。

ところで、この堤防沿いに「渡舟遭難慰霊碑」があり以前からとても気になっていたので、都南図書館で、このことについて調べてみました。昭和14年10月2日の事故のことです。

以下、「都南村誌」(昭和49年刊)から引用します。まずは、この付近の歴史から。

天明二年(1782)の「邦内郷村誌」に、北上川の東西地域を結ぶ渡船場として、西徳田、高田、見前町、三本柳の四渡船場があったことが記されている。
北上川に架橋ということは容易なことではなく、昭和三十七年(1962)、漸く徳田橋が工費1億3000万円で完成をみてから、渡船場も廃止され、現在は三本柳渡船場を残すのみとなった。

昭和49年頃までは渡船場があったとは驚きです(でも、確かに都南大橋も1982年竣工と私から見れば新しい)。引き続き引用します。

県立農学校が、津志田にあった頃である。学校の私設渡船場が、津志田と門を結んでいた。昭和十四年(1939)十月二日、門の実習地の麦蒔を終えた二年生が、帰校のとき満員の渡船が浸水して沈没し、犠牲者10人をだすという悲しい事故もあった。
渡船場の運行は、こうした危険を伴っているのである。

県立農学校とは今の盛岡農業高等学校のことで、昭和41年に跡地を盛岡第四高等学校に移管しています。話はそれますが、盛岡高等職業訓練校(後の盛岡高等技術專門校、廃校後は岩手県立産業技術短期大学校に再編)、岩手県工業試験試験場等も昭和40年台前半にこの跡地付近に移転しているので、農業高校故かなり広大な土地だったのでしょう。

碑の背にはこのような記述がありました。
「昭和六十三年十月二日  遭難五十回忌に際し同窓生之を建つ」

事故から五十年後。現役を引退し第二の人生を歩み始めた同窓生の皆さん、ずっと心の中に秘めていたかつての仲間への想い、それをやっと形にしたものということでしょうか。

ガラスの腰

4月26日から腰が痛くて大変でしたが、やっと治ってきました。基本的に私は運動不足で体は強くない方です。

今から遡って15年前の新婚の頃、ふざけて、お嫁ちゃんを抱っこしてジャンプしたら、腰を痛めて全く動けなくなったことがあります。それ以来、重いものを持ったり何か作業をすれば、2日後あたりに腰が痛くなり、いつの間にか治るという生活を繰り返して来ました。

今回も数日すれば自然に治ると思っていましたが、酷くなる一方で我慢できず、近くの整形外科に診てもらい薬を処方されました。

その翌日、5月1日は最悪の一日でした。

一年に1回、お義母さんの定期検査のため宮古から盛岡市立病院まで送迎する役目(盛岡―宮古2往復)があるのですが、その日は、薬も貰ったし朝の具合も良かったので何とか1日腰がもつかと思ったら!

宮古から盛岡までお義母さんを車で乗せて来たまでは良かったのですが、私の腰の痛みが再発、しかも車の座席に座れなくなってしまったのです。病院の駐車場で車のまわりをウロウロ、病院の休憩コーナーでリハビリ。途方にくれる、お嫁ちゃんとお義姉さん、お義母さん・・・

結局、お義母さんを宮古に送るのは、急遽、お義姉さん夫婦に何とかしてもらい、後はお嫁ちゃんと共にどうやって矢巾に帰るかの問題になりました。車の座席に座れない。

立っているのは我慢できるので、そのままバスで盛岡駅まで行き、駅前の駒ヶ嶺リウマチ整形外科の診断をうけ、処方された座薬を駅のトイレでぶち込み(笑)、また市立病院に戻り、いくらか改善され車に乗れるようになったので何とか帰宅できました。5年位前にお世話になったこの整形外科、初めからここに来れば良かった・・・

翌日の矢巾町PTA代議委員会・懇親会は、会場が座敷のため欠席しました。

今年は自分で焼いてみた

息子のリクエストに応え、今年も相の沢養魚場に行ってきました。

息子はイワナをガンガン釣ってくれました。私はヤマメ、ニジマス?を少々。結局、買い取りなので痛い出費です(笑)。あれ?何だか単価が上がっているような気もいたします。

今年は持ち帰って、自分達でさばいて焼いてみましたが、思っていたより簡単でした。というか、とても楽しかった!