渡舟遭難慰霊碑

都南大橋の袂から北上川に沿って北へ続く堤防の道、サイクリングロードを晴天の日に歩くのはとても気持ちが良いです。息子がフジサワテニスクラブで練習している90分の間、条件が良ければこの道を歩きます。

綺麗に作られた畝には、いつも関心させられます。天気が良い日にしか来ないので、土はいつもパサパサです。市街地のすぐ裏にこんなにのどかで良い場所があるのですね。

ところで、この堤防沿いに「渡舟遭難慰霊碑」があり以前からとても気になっていたので、都南図書館で、このことについて調べてみました。昭和14年10月2日の事故のことです。

以下、「都南村誌」(昭和49年刊)から引用します。まずは、この付近の歴史から。

天明二年(1782)の「邦内郷村誌」に、北上川の東西地域を結ぶ渡船場として、西徳田、高田、見前町、三本柳の四渡船場があったことが記されている。
北上川に架橋ということは容易なことではなく、昭和三十七年(1962)、漸く徳田橋が工費1億3000万円で完成をみてから、渡船場も廃止され、現在は三本柳渡船場を残すのみとなった。

昭和49年頃までは渡船場があったとは驚きです(でも、確かに都南大橋も1982年竣工と私から見れば新しい)。引き続き引用します。

県立農学校が、津志田にあった頃である。学校の私設渡船場が、津志田と門を結んでいた。昭和十四年(1939)十月二日、門の実習地の麦蒔を終えた二年生が、帰校のとき満員の渡船が浸水して沈没し、犠牲者10人をだすという悲しい事故もあった。
渡船場の運行は、こうした危険を伴っているのである。

県立農学校とは今の盛岡農業高等学校のことで、昭和41年に跡地を盛岡第四高等学校に移管しています。話はそれますが、盛岡高等職業訓練校(後の盛岡高等技術專門校、廃校後は岩手県立産業技術短期大学校に再編)、岩手県工業試験試験場等も昭和40年台前半にこの跡地付近に移転しているので、農業高校故かなり広大な土地だったのでしょう。

碑の背にはこのような記述がありました。
「昭和六十三年十月二日  遭難五十回忌に際し同窓生之を建つ」

事故から五十年後。現役を引退し第二の人生を歩み始めた同窓生の皆さん、ずっと心の中に秘めていたかつての仲間への想い、それをやっと形にしたものということでしょうか。

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