大川小学校事故検証報告書の最終版が大川小学校事故検証委員会HPに掲載されました。
地震発生から避難開始までの50分間も、先生方は何故もたもたしていたのか。空白の50分を明らかにせよと委員会は責めらたようです。そう責められるほど、大川小学校の組織・行動がいけなかったのでしょうか。
以下は、私が検証報告書(3.2 事故当日の状況に関する情報、P.87付近)から読み取った内容です。
石巻市立の小中学校のうち、被災したした学校は24校である。当日、避難を実施したのは児童・生徒が学内いた20校であった。20校のうち、15時30分頃(地震の揺れ始め14時46分から45分程度経過)に学内(ほとんどが校庭)に児童生徒がいた学校は19校であった。空白の50分間とは、大川小学校に限る話ではない。
校舎が水没するなど大川小学校と同程度の浸水があったのに、児童の被害が無かった5校、そのうち速やかに避難を行ったのは門脇小学校1校のみであった。
その他の4校は、(1)海が見えるところまで見に行き、津波を確認した職員の進言、(2)消防団員による津波の監視、(3)ラジオ・防災無線による情報入手、(4)子どもを引き取りに来た保護者の強い進言等により15時30分以降に避難行動を開始している。
大川小学校は15時33分〜34分頃に避難を決定しており、その他の学校と時間に大差はない(しかし、これが大災害に繋がってしまった)。
その他の4校は、海からの距離が75メートルから300メートル程度である。大川小は3.6kmとなっているが、単純な海からの距離で言えば、当日避難した学校20校のうち、最も海から遠い。
以下は、私の憶測になってしまいますが、ほとんどの学校が、警報や監視によって津波の到達がほぼ確実となった時点で避難を開始していることから、15時30分頃までは津波よりも地震の揺れ(余震)の脅威が判断基準になり、校庭に待機していたのではないでしょうか。
http://bousai.tenki.jp/bousai/earthquake/detail20110311144600.html
http://bousai.tenki.jp/bousai/earthquake/detail-20110311150600.html
http://bousai.tenki.jp/bousai/earthquake/detail-20110311151500.html
http://bousai.tenki.jp/bousai/earthquake/detail-20110311152600.html
あの日は、地球がどうにかなってしまったのではないかという程の激しく執拗な揺れでした。特に宮城県は震度7を観測した最も震源に近い位置であり、裏山や校舎の屋上に避難することは、地震の揺れへの対応としては(ある意味)非常識で行動に移しづらい危険な行為に思われたのでは?
津波を予想して即避難を実行できなかった石巻市立の各学校の判断は止むを得なかったものと思っています。
遺族の皆さんの悲しみや怒りの様子に深く心を痛めております。しかし、マスコミ等が中心になって、生き残った先生、当日不在だった校長、子ども達と共に亡くなった先生方の非を認めさせようとする空気に違和感を感じるところもあります。
特に、亡くなった先生方の、自らの判断によって子ども達を守れなかった無念さを想像すると、その違和感はより強いものになっています。