3月11日のその瞬間を境に、生活ががらりと変わってしまいました。それでも、日常の生活を取り戻しつつある私たちは良い方。次々と悲しい現実に直面する方々がおられる。
職場からは、沿岸の支援ということで何名かが寝袋・食料持参で派遣されました。通常の業務をこなしている自分に少し歯がゆさを感じていますが、当面は自分のような役割も必要なのだと、「無用の用」として支えていくことも大切なのだと自分に言い聞かせて日々過ごしています。
しかし、いつまでも悶々として生活する訳にもいきません。地震前後の我が家族の生活の記録も残して、気持ちの整理をしたいと思います。
3月9日(水)11時45分頃
職場で、学生の内定先企業の柴田さんから電話があり、その最中に強い揺れを感じた。周りの職員、学生も騒然となる。
「怖い。落ち着いて話ができないので、すみません、ちょっと待ってください。うわっ、怖い。今、どちらですか?大船渡?揺れていませんか?」
柴田さんは屋外にいるのか、地震の揺れを感じている様子はなかった。振り返れば、やっぱり我が職場の4階は揺れが大きい。
3月10日(木)
朝、外の景色を見ると、天気は良いのに空気が黄色っぽい。黄砂かと思って気象庁のサイトを見ても、それは観測されていない様子。お嫁ちゃんと、「気持ち悪いな。大地震が来るのではないか。」と会話をする。
夜、PTA役員で集まり、娘の小学校卒業式(3月18日)後に行う「卒業を祝う会」の打ち合わせをする。18時30分から公民館の閉館時間21時30分ぎりぎりまでかかる。シナリオ・役割分担、食事(お菓子)のメニュー、余興、花束・メッセージアルバムの贈呈方法など大いに盛り上がる。
3月11日(金) 14時45分頃
(職場)
午前中に職場の卒業式を終え、教室で、卒業する学生に卒業証書などを手渡しする。最後に情報技術科職員・学生全員で記念写真を撮って解散。職員室に戻り、一息ついているときに、突然、聞き慣れない警告音がなりひびく。O先生が携帯を見て「緊急地震速報だ!」と叫び、(確か)部屋から出飛び出す。
すぐにズズズズ・・と揺れはじめ、横揺れが始まる。棚の上にあるテレビが落ちてはいけないと思い、まずは支える。しかし、揺れは強くなる一方で、怖くなり、棚から離れる。
そこからが長かった。これでもか、これでもかと揺さぶられ続ける。テレビは棚ごと倒れ、書棚の本はすべて落下し、通路に山となる。机の上の携帯を見ると、着信履歴が1件。お嫁ちゃんからだ。彼女は、大地震のときは、繋がりにくくなる前に必ず電話をかけてくる。揺れている最中であっても。
揺れはなかなか収まらず、部屋から逃げ出すタイミングを失う。物がどんどん落ちるのを見ているだけ。「うわー、信じられねぇ!」と連呼していたと思う。本当に恐ろしかった。
揺れが収まったところで、崩れ落ちた本を踏んづけて廊下に脱出し、4階は怖いということで屋外に避難する。
あまりの激しい揺れに、家が相当壊れたのではないかとお嫁ちゃんに「大丈夫か」とメール。約1時間後に、「大丈夫」の返事が届く。
(我が家)
その時、お嫁ちゃんは、2階で洗濯物を干していた。娘は、2階の自分の部屋で固まった状態で動けず。息子は1階に居て、2階のお嫁ちゃんが「今、下に行くからね!」の声がけに対して、「来なくていいよ!」の返事をしたという。頼もしい息子よ。
我が家の被害は次のとおり。2008年の「岩手・宮城内陸地震」、「岩手沿岸北部地震」では被害がなかったので、今回の地震はやはり大きかったと言える。
・電子レンジが落下・損傷。
・壁のCDラックから、CDが全て落下。
・タンス、冷蔵庫、ピアノが数センチ移動。
・ケンコート塗り壁2〜3カ所がひび割れした。今後、補修はしないで残しておく予定。
・家の基礎の上部の1カ所が、モルタルとともに剥離した。3〜4センチのかけら。基礎の強度には影響がないはず。
(八幡平市の実家)
数日後に確認したが、棚の上に沢山ある写真楯も倒れず。私が生まれた年にあった十勝沖地震が一番すごかったと、両親の話。
(宮古市の実家)
揺れによる被害はなし。